東京都世田谷区川村家文書保存・調査活動報告
代表理事 西村 慎太郎
2015.5.11
2012年1月より世田谷区川村家文書の保存・調査活動を進めている。川村家は江戸時代に伊勢国津藩藤堂家の儒者として活躍し、近世後期には藩校有造館督学(いわゆる校長)を務めた川村竹坡を輩出した後、近代以降は教育者・陸軍軍人として活躍した家である。内容は掛軸113点。保存処置としては多くの掛軸に巻紙が成されていなかったため、ノンバッファ紙で巻紙を作成致し、そこに鉛筆で文書番号を記し、目録との同定を可能とした。
注目すべきものとして、地元の学者や文化人による書画(津阪孝綽・鷹羽雲淙・丹羽閑斎など)、大塩平八郎・田能村竹入・柴野栗山など各地の著名人による書画が多数発見されたことである。川村竹坡を取り巻く文化ネットワークが垣間見られる資料群と言えよう。これらについてはすでに三重県立博物館にも御連絡をし、今後何らかのかたちで地元に還元させていきたいと考えている。また、保存・調査活動について、読売新聞の取材を受け、2013年2月6日付け『読売新聞』(三重県版)に「儒学者・川村竹坡子孫宅から100点」という記事が掲載された。
また、掛け軸の保存・調査活動の後に、巻子3巻が新たに発見された。内容は川村竹坡宛の書簡で、京都の儒者である猪飼敬所からの書簡を多数含んでおり、それらは現在、史料集としての刊行を準備している。
最後に、川村家文書に遺されている掛け軸の作者について、現段階で判明している作者の概略を述べる。( )内のナンバーは文書番号である。
・川村竹坡:寛政 9年〜明治8年。名は尚迪(なおみち)、字は毅甫、通称は貞蔵。詩を津阪東陽(28)に学ぶ。津藩藩校有造館督学
・黒部拈華(1): 安政3年〜昭和8年。鳥取市生まれ。名は義暁、字は允周、別号は微笑子。南画を学び万国博覧会などにて受賞した後、帝国絵画協会会員。
・野田笛浦(4・41):寛政 11年〜安政6年。丹後田辺(牧野家)藩士。名は逸、字は子明。通称は希一、別号は海紅園。儒者として江戸にて古賀精里・?庵に学ぶ。後に家老に進み、藩主牧野誠成とともに藩政改革を進める。主要著作は『得泰船筆語』『海紅園小稿』。
・谷口藹山(あいざん6):文化13年〜明治32年。越中国新川郡鉾ノ木村に生まれる。名は貞二、字を士幹、号は藹山、別号は鴨浙水荘(おうせつすいそう)。18歳で谷文晁に師事。儒学を篠崎小竹に学び、九州遊学時には咸宜園の広瀬淡窓に学ぶ。安政2年御所造営では障壁画を描いた(全92名のひとり)。明治13年京都府画学校(京都市立芸術大学)教授就任。明治29年には富岡鉄斎らとともに日本南画教会設立。
・伊藤東涯(13):寛文10年〜元文元年。伊藤仁斎長男。名は長胤(ながつぐ)、字は原蔵・源蔵・元蔵、号と東涯、別号は慥々齋。諡は紹述先生。仁斎を継ぎ古義堂を継承する。新井白石・荻生徂徠らとも親交が深かった。
・伊藤東所(13):享保15年〜文化元年。伊藤東涯三男。名は善韶(ぜんしょう)、通称は忠蔵。父を継承。紀州藩主徳川宗将の四男で三河挙母藩藩主を継いだ内藤学文が傾倒し、天明7年に藩校崇化館を創設すると初代学頭に就任。後に長岡藩主で京都所司代の牧野忠精に教える。
・鷹羽雲淙(21):寛政8年〜慶応2年。伊勢生まれ。名は竜年、字は壮潮、通称は主税、別号は瀑翁。林?宇(ていう。林述斎男、大学頭)に学ぶ。鳥羽藩藩校尚志館で教える。
・丹羽閑斎(22):文化7年〜明治13年。尾張藩士。名は氏常、通称は左一郎、号は閑斎。尾張藩徒士頭格から藩校明倫堂督学、参謀を歴任。後に名古屋藩権大属。
・大原呑舟(25):寛政4年〜安政4年。画家であり儒者の大原呑響の子。名は鯤(こん)、別号は崑崙(こんろん)。四条派に学び山水画や人物画を描いた。
・津阪孝綽(こうしゃく。28・43): 宝暦7年〜文政8年。伊勢生まれ。字は君裕。通称は常之進、号は東陽。藩主藤堂高嶷(たかさと)に招聘されて伊賀上野にて教える。藩校有造館設立後、初代督学。主要著作は「聿修録(いっしゅうろく)」「孝経発揮」「夜航詩話」。
・龍公美(29):正徳5年〜寛政4年。山城伏見生まれ。字は君玉、号は草盧・竹隠・松菊主人・呉竹翁。彦根藩儒者として仕える。
・藤堂高克(31):文化13年〜明治20年。久居藩藤堂家の一族。字は士儀、法号は常山。天保11年に家督を相続し津藩番頭。第二次長州征伐では総督となり、帰国後家老就任。
・篠崎小竹(36):天明元年〜嘉永4年。加藤氏。幼名は金吾、名は弼(たすく)、字は承弼、別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁など。長左衛門。医師加藤周貞次男として大坂に生まれる。篠崎三島の私塾梅花社に入門し、養子となる。詩・書に優れ、大坂随一の文人と評される。
・細川利和(36):肥後熊本藩細川氏一族。
・猪飼敬所(いがいけいしょ。44)宝暦11年〜弘化2年。名は彦博(よしひろ)。字は文卿・希文。近江国出身。天保2年藤堂高猷に招かれて津藩儒者となる。頼山陽死の直前、北朝正統論を戦わせる。現在、津市龍津寺門前に猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱あり。
・細川林谷(45):安永9年〜天保14年。広瀬氏、名は潔、字は痩仙・氷壺、号は林谷・林道人・忍冬?・三生翁・白髪小児・天然画仙・不可刻斎・有竹家など。通称は春平。讃岐国出身。幼い頃より篆刻を学び、のちに江戸中橋広小路芝に住む。山水画・墨竹図を得意とした。
・高久靄香i46):寛政8年〜天保14年。下野国那須郡杉渡戸村出身。諱は徴、字は遠々・子遠、通称秋輔。号は靄香E石窟・如樵・石?学・梅斎・疎林外史・学梅斎・晩成山房など。18歳で黒羽藩の画家小泉斐に入門、のちに壬生藩御用絵師平出雪耕に学ぶ。谷文晁の画塾写山楼の門下となり、江戸住む。40歳で上方に向かい、細川林谷や岡田半江らと交友、その後伊勢に向かう。墓所は谷中天龍院。
・柴野栗山(47):元文元年〜文化4年。讃岐国三木郡牟礼村出身。名は邦彦、字は彦輔。である。高松藩儒者後藤芝山に習う。宝暦3年に湯島聖堂で学ぶ。明和4年に徳島藩儒者となり、のちに藩主侍読となる。天明7年幕府に呼び出され寛政異学の禁を主導。
・渡辺華石(50):嘉永5年〜昭和5年。小川氏。名は静雄、字は規道。渡辺崋山の二男小華に学び、後に養子となる。山水人物画を描く。
・市川 一学(55):安永7年〜安政5年。名は?・廷、字を孟瑶、号に達斎・梅顛など。儒者・兵学者。昌平黌に学び、高崎藩儒者となる。
・李斗□(王偏に英)(57):1858年〜1916年。朝鮮の軍人。漢城(ソウル)出身。書に堪能であった。1900年全羅北道長官に就任。
・池田雲樵(59):文政8年〜明治19年。伊賀出身。名は政敬、字は公維、別号は半仙など。津藩御用絵師。
・中内樸堂(60):文政5年〜明治15年。島川氏。名は惇、字は五惇、別号は柳山。津藩士。斎藤拙堂に学び、藩校有造館や伊賀上野の崇広堂(しゅうこうどう)で教える。明治3年有造館督学参謀。
・西依成斎(62):元禄15年〜寛政9年。肥後出身。名は周行、字は潭明、通称は儀兵衛。小浜藩儒官。
・寄田九峯(63):張月樵の門人。江戸時代後期の絵師。
・土井ごう牙(どいごうが。65): 文化14年〜明治13年。名は有恪、字は士恭、通称は幾之助。津藩儒医土井橘窓次男。石川竹香A斎藤拙堂に学ぶ。有造館の助教・講官をつとめ、明治2年督学。
・宮崎青谷(66):文化8年〜慶応2年。名は定憲、字は子達、通称は弥三郎。津藩士。斎藤拙堂に学び、有造館の講官となる。山水画をよくした。
・岡本花亭(67):明和4年〜嘉永3年。名は成、字は子省、通称は忠次郎、別号は豊洲・醒翁・詩痴。幕臣として勘定所役人、天保8年信濃中野代官。のちに勘定吟味役・勘定奉行を歴任。漢詩人。
・細合 半斎(68):享保12年〜享和3年。名は離・方明、字は麗王、号は半斎・学半斎・斗南・白雲山樵・太乙・武庫居士、通称は八郎右衛門・次郎三郎。儒者・書家・漢詩人。伊勢出身。
・河野秀埜(69):慶応3年、43歳にて没。名は維罷、字は夢吉、別号は鉄兜。播磨出身。漢詩人。庄内藩藩校致道館教授。
・小島成斎(70):寛政8年〜文久2年。名は知足(ちかたり)、字は子節、通称は五一、別号は静斎。備後福山藩士。書家、儒者。江戸で市河寛斎・米庵に学ぶ。
・松岡環翠(71):文政元年〜明治20年。名は光訓、字は季慎、通称は橘四郎、別号は蓮痴。津藩士松岡光亨の子。墨蓮画を得意とした。
・山田方谷(72):文化2年〜明治10年。名は球、通称は安五郎。備中松山藩西方村出身。陽明学者。松山藩藩校有終館会頭、学頭を歴任。のちに郡奉行となり藩財政再建に当たる。
・林 羅山(75):天正11年〜明暦3年。諱は信勝、字は子信、通称又三郎。出家後、道春と号す。京都四条新町出身。藤原惺窩に朱子学を学ぶ。家康に仕える。家光の侍講として幕政に関与。寛永7年、家光から上野忍岡に土地を与えられ、私塾・文庫設置(のちの聖堂と昌平坂学問所)。幕府より910石を給せられる。
・小曽根乾堂(77):文政11年〜明治18年。諱は豊明、字は守辱、通称は栄、室号を鎮鼎山房・浪平釣叟とした。長崎商人・書家・画家・篆刻家。越前・佐賀藩御用商人。書を春老谷・水野眉川に学ぶ。坂本龍馬の亀山社中に出資。明治4年政府から御璽・国璽の刻印を拝命。
・田能村直入(79):文化11年〜明治40年。諱は蓼・痴、字は虚紅・顧絶、号ははじめ小虎と称したがのちに直入。別号に竹翁などがある。9歳のときに竹田の画塾に入門。才能を見いだされ養嗣子となる。岡藩士として仕え、ほかにも土佐藩主山内容堂、津藩主藤堂高猷と昵懇。明治13年京都府画学校開校により直入は摂理(校長)に就任。
・大田蜀山人(80):寛延2年〜文政6年。名は覃(ふかし)、字は子耕、通称は直次郎・七左衛門、別号は蜀山人・玉川漁翁・石楠齋・杏花園・遠櫻主人・四方山人、狂名は四方赤良・寝惚先生。幕臣、随筆や狂歌作者。寛政の改革を批判した狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目される。御勘定所諸帳面取調御用などを務める。
・松岡環翠(82):文政元年〜明治20年。名は光訓、字は季慎、通称は橘四郎、別号は蓮痴。津藩士松岡光亨の子。墨蓮画を得意とした。
・貫名菘翁(ぬきなすうおう85):安永7年〜文久3年。吉井氏。名は直知・直友・苞(しげる)、字は君茂・子善、通称は政三郎・省吾・泰次郎、号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など。室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。笑青園など。儒者・書家・文人画家。幕末の三筆。徳島藩士吉井直好二男。大坂懐徳堂に入門し、中井竹山の下で学び、のちに塾頭。京都にて私塾須静堂開設し、朱子学を教えた。
・阿出川真水(86):昭和18年、65歳にて没。名は準、通称は庄蔵、別号は掬碧楼・高遠居。画家。東京出身。柴田是真・久保田桃水・野村文挙などに四条派を学ぶ。烏号会・日本画会・日月会・下萌会に所属。
・小田海僊(91):天明5年〜文久2年。通称は良平、名は羸(るい)・瀛(えい)、字を巨海、号は海僊・百谷・百穀。南画家。 周防国富海出身。赤間関の紺屋小田家の養子。四条派画家の松村呉春に入門し、のちに南画に転向。文政7年、萩藩御用絵師となる。高野山や京都御所の障壁画などを手掛けている。墓所は大徳寺黄梅院。
・十時 梅香iとときばいがい92・93):寛延2年〜享和4年。名は業・賜(しゃく)、字は季長・子羽。号は梅香E顧亭・清夢軒・天臨閣、通称は半蔵。伊勢長島藩儒者。大坂出身。伊藤東所に古学を学ぶ。池大雅や木村蒹葭堂と交流。天明4年趙陶斎の紹介で伊勢長島藩藩儒となり、藩校文礼書院の設立。墓所は大坂正念寺。
・小池裸石(97・99・100・102〜108):明治31年〜昭和58年。富士見町立沢出身。速水御舟門下。朝光会員で名古屋にて活躍。