南伊豆町差田外岡家文書保存・調査活動について


代表理事 西村 慎太郎
2015.4.21


 南伊豆町差田外岡家文書は外岡家の御当主よりの御依頼により、岡村龍男氏(静岡市文化財課)の御紹介のもと、2011年4月23日南伊豆町の南に位置する外岡家文書の所在確認を行ない、以降2012年11月まで保存・調査活動を行なった。

 差田はもともと「指田」とも称され、入間・中木(現在の南伊豆町入間・中木)とともに一村を形成していた。江戸時代になると入間村と称されるようになった。江戸時代の領主ははじめ幕府直轄の領地、宝永5年(1708)に富士山噴火に伴い小田原藩領の大規模な領地替えが実施されるが、その際小田原藩領となった。延享4年(1747)に再び幕府直轄の領地、文化8年(1811)に旗本有馬家領となり、明治維新を迎えた。村の家数は近世後期で202軒、船数15艘で沿岸部は廻船や漁業を生業にしていた。

 外岡家は江戸時代段階では治五右衛門を名乗っており、地元の神社である新八幡宮の「鍵取」を務めていた(文書番号41-1・2。以下、括弧内の番号は外岡家文書の文書番号)。屋号は「池ノ谷戸」。近代以降の外岡家の特筆すべき人物として、外岡久米吉(明治10年生まれ)が日露戦争に従軍したことにより勲七等青色桐葉章及び功七級金鵄勲章を授けられたことであろう(46-31・34・35など。最終階級は陸軍歩兵軍曹)。なお、久米吉の息子は太平洋戦争の南方戦線に従軍し、ガダルカナルの戦いで戦死した(47-89)。

 作業は次の通りである。
 最初に、保管されていた古文書たちの収納状況の確認を行ない、その状況を適宜記録した(現状記録)。
 外岡家文書は小型の木製箱と勲記箱の2つがあり、それぞれ保管されている現状を記録した。合わせて、簡単なクリーリングを行なった上で、古文書の中でも巻子(巻物状)になっているものはAFハードボードとアーカイバルボードと称される強度のある中性の紙で特製の箱を作成した。この作業には東洋美術学校保存修復科の学生に行っていただいた。
 その他の古文書については保存環境を考慮した上で、全点中性紙封筒に入れ、AFハードボードの箱に収めた。
 現状記録と保存処置が終了した後、古文書一点一点の調査を行ない、目録を作成した。
 目録には古文書一点についてそれぞれ、
@表題・内容、
A作成年代、
B作成者、
C宛名、
D形態、
E数量、
Fその他(劣化状態・印刷の形態・彩色の有無・法量など)
を記載した。
 一点ごとの調査が終了した後、全点写真撮影を行なった。

 文書群は大きく分けて@蓋付き木箱に一括されたもの(93点)、A縦長の勲記箱に一括された近現代文書(201点)の二つに分類できる。
 蓋付き木箱には上部に様々な寺社の御札・御守りが大量に詰められていた。地域的には三河から伊豆・相模の東海地域が多いが、信州善光寺や日光山も見られる。参詣によって蒐集したというより「ええじゃないか」などの際に集めたものなのではなかろうか(高木俊輔『明治維新と豪農 古橋暉皃の生涯』吉川弘文館、2011年参照)。
 その下に主に巻子状の文書が47点収められていた。巻子状の文書は小笠原流礼法書であり、弓法に関するものが多く占めた。年代が把握できるものでは文禄5年(1596)から寛永16年(1639)の文書であり、なぜ同家にこれほど多くの小笠原流礼法書が伝来したかは不明である。いずれにしても、小笠原流礼法を検討する上で重要な文書群であると言えよう。これらの巻子は紙質が脆弱になっていたため、一点ごとを収納するための専用の箱をAFハードボードにて自作した。
 漆塗りの勲記箱には近代以降のはがきを中心として家に関わる文書が多く遺されていた。勲記類もここに収められていた。国民学校の皆勤賞など子どもたちのものも確認できた。

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