南伊豆町上賀茂村渡辺家文書調査・保存活動


代表理事 西村 慎太郎
2009.3.4


 南伊豆の観光地である下賀茂温泉と目抜き通りを抜け、河津桜の並木が川面を彩る青野川が見えると、そこは南伊豆町上賀茂地区です。伊豆石の産出地として栄え、いまでも無数の採石跡が確認できます。ここで採掘された無数の石は青野川をつたって、河口の手石湊へ運ばれ、江戸で利用されました。明治6年、戸長を務めた渡辺良平家の採石量は年間2000切。実に600両もの収入があったことが分かっています(詳細は当法人ニュースレター『じゃんぴん』2号を御参照下さい)。

 その戸長を務めた渡辺家の史料保存・整理活動を2006年夏から実施しております。現在のところ、1157点に及ぶ古文書の仮目録が完成していますが、まだまだ保存・調査活動は続いています。南伊豆では有数の史料群と言えるでしょう。

 ここで、上賀茂について説明します。上賀茂はもともと上賀茂村として、下賀茂村とともに賀茂郷(加茂郷・賀茂村などとも)を形成していました。貞享元年(1684)上賀茂と下賀茂に分かれています。上賀茂村は幕府の領地でしたが、元禄11年(1698)に旗本溝口家と旗本三枝家のふたつの領主が支配することとなりました。渡辺家には旗本領となった当初の名寄帳(年貢などを把握するため、村人ごとに土地を記した帳簿)が遺されています。このうち溝口家の領地は150石余で、これを上組と称しました。他方、三枝家の領地も150石余で、これを下組と称しました。現在、調査中の渡辺家は上組に属し、遅くとも江戸時代後半には名主を務めています

 では、渡辺家の史料の中にはどのようなものがあるでしょうか。大きく分けて、2つの種類に分けられます。ひとつは名主や戸長・区長として、村政に関わった時に作成・伝達された行政文書の類もうひとつは採石を中心とした家文書類です。行政文書の類については江戸時代の上賀茂村に関する年貢関係が断片的に遺されているのをはじめ(上組・下組問わず)、明治時代以降戸長として、郡や県からの布達、地租改正、徴兵、学校建設など多くの史料が確認できます。とりわけ、明治6年以降については連続かつまとまっていまため、当該期の上賀茂地域を考える上では不可欠な史料群と言えるでしょう。家文書の類については主に石の産出に関するものです。こちらについては現在調査中ですが、伊豆石生産の一端を示すものとして注目されます。

 このような貴重な史料群ですが、一部、破損・虫損の被害にあっていて、酷いものではめくることができないものもありました。そのような状態を解消するため、東洋美術学校と提携し、修復の事業に踏み切ることに致しました。この点については当法人ニュースレター『じゃんぴん』第4号にプロジェクトの意図を記してありますが、一部抜粋してみましょう。

 このプロジェクトにはふたつの狙いがあります。ひとつには、史料の修復を廉価に行なうことです。現在、調査している史料のうち、虫損や破損、汚損、カビなど劣化してしまっているものが多く見られます。それらの修復を進めるためにはたいへん多くの費用を要しますが、それを賄うことは困難です。そこで教材として提供することによって、廉価で修復を行ないえるという利点があります。もうひとつには、教材提供はすなわち修復を担う次代の方々の育成につながります。加えて、東洋美術学校をはじめ、このような修復を専門とする学校では教材集めがたいへんで、わざわざ購入しなくてはならない場合などもありました。今回、このような形で提供することで、学校側はコストを下げることができるわけです。もちろん、教材としての利用は修復のクオリティや責任の問題などがあるのではないかという疑問も沸くでしょう。しかし、秋山純子先生や講師をなさっている櫛笥節男先生(元宮内庁書陵部)との数度にわたる検討と、質の高い昨年度の報告書を拝見し、何ら問題なかったため、所蔵者の快諾を頂いた上で、教材提供に踏み切りました。

 こうして、全く開くことのできなかった12点の史料が、見事に修復され、渡辺家へ返却されることとなりました。
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